【Jリーグ通訳の経歴まとめ】サッカー通訳として生きていく為には

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かつて私もJリーグの通訳という職業に憧れておりました。

Jリーグの通訳になるにはどうしたらいいのか?

実力ももちろんですが、ズバリはコネタイミングだと思います。

Jリーグでポルトガル語の通訳になるため【募集や年収について】
大学でポルトガル語を専攻し、ブラジル留学も経験した私はかつてJリーグの通訳になりたいと思っていました。 ポルトガル語、ブラジル関係の環境にいた為周りにはJリーグの通訳をやっていた人がたくさんいたので結構身近な業界な気がしてました。 ...

これまでサッカー界で長く活躍されている有名通訳の方達の経歴を簡単にまとめました。

これからサッカー通訳として働きたいと思っている人たちの参考になれば嬉しいです。

ちなみに通訳といっても、いろいろな言語の通訳がありますが、今回はポルトガル語の通訳者ということにいたします。

という訳でザックの通訳の矢野さんや、トルシエの通訳のダバディは出てきませんので。

鈴木國弘

鈴木國弘

ジーコが絶対的な信頼を寄せる名通訳として有名でしたね。

鹿島アントラーズ時代、日本代表時代とのべ15年間、ほぼジーコの専属通訳とし供に歩んできました。

それでは鈴木氏の経歴をみてみましょう。

プロフィール
生年月日1955年12月25日
出身千葉県
通訳歴
1991-2001鹿島アントラーズ
2002-2006日本代表

鈴木氏自身もサッカープレー経験があり、サッカーを通して15歳の頃からブラジル人と交流がありました。

将来はブラジルへ留学したい!

そんな夢をかなえる為に高校卒業後は、新聞配達やブラジルレストラン、ブラジル大使館などでのアルバイトに精を出します。

そこでつくった資金により、19歳で念願のブラジル留学を達成しました。

約10カ月の滞在の後日本へ帰国。

再びブラジル大使館で働くこととなりますが、もう一度ブラジルへ行きたい!

その想いからブラジル現地の旅行社に就職し、再びサンパウロへ行くチャンスを得ました。

旅行会社では約7年もの間、日本-ブラジル間の交流をコーディネートする業務に携わりました。

当時日本にはまだJリーグもありませんでした。

しかし70年代後半の日本は、そんなサッカー不毛の地へフジタ工業のマリーニョカルバリオなど、ブラジルから数多くの伝道師たち来日してきた時期だったのです。

ラモスが初来日したのもこの時期です。

そして31歳の時に旅行会社から独立し、約5年間もの間、その伝道師たちのコーディネート業務に専念することになりました。

このあたりの話はこの本に詳しくかかれております↓ 私持ってます。

そし91年に転機が訪れます。

住友金属(現鹿島アントラーズ)とジーコが契約したときの記者会見で通訳を務めたのをきっかけに、翌92年から鹿島アントラーズ専属通訳に就任することになったのです。

すごいですね!イチ企業のサッカー部に世界のジーコがやってきたんですよ!

高校の文化祭でローリングストーンズがライブをやるようなものです。

以来鈴木氏は鹿島一筋で10年間通訳を務め、また2002年からは日本代表監督通訳としても活躍しました。

日本代表と共に2006年ワールドカップにも出場

私はクロアチア戦で柳沢(QBK)が決定機を外した時の、鈴木氏のあの表情が非常に印象的でした。

鈴木國弘QBK

ジーコが日本サッカー界から離れた後は、鈴木氏自身もサッカー界からいったん身を引かれた様子です。

一時期出家もされたときいた事があります。

ちなみに鈴木氏クラスの通訳ともなるとそのギャランティも破格となり、年収では選手並み4桁もらっていたらしいです。

夢広がりますね。

 

 

高井蘭童(らんどう)

高井蘭童

鈴木氏からバトンタッチで鹿島アントラーズの通訳に就任した高井蘭童氏です。

今では10年以上同クラブに在籍し、ベテラン通訳として活躍しております。

プロフィール
生年月日1973年11月8日
出身ブラジル サンパウロ
通訳歴
1995年 –柏レイソル
1996年 – 1999年横浜フリューゲルス
2000年 – 2002年大宮アルディージャ
2001年 –FIFAコンフェデ2001 ブラジル代表
2002年 –2002 FIFAワールドカップ ブラジル代表
2003年 –鹿島アントラーズ

鈴木氏とは対照的に、高井氏はブラジル人なのでポルトガル語が母国語になります。

高井氏は両親が日本人の日系2世です。

ブラジルで生まれ育ち、10代の半ばで来日しました。

来日当時の日本語のレベルは挨拶程度

自信サッカーのキャリアもなかったそうです。(大学の時に3年間柔道はやってたらしい)

そんな彼が95年柏レイソルで通訳としてのキャリアをスタートさせ、その後横浜フリューゲルス、大宮アルディージャ、と渡り歩き鹿島アントラーズへたどり着きます。

その日本語はおかしい!、言葉の意味がわからない!

時には選手に怒鳴られながら、通訳としての実務を現場で体得していったのだそうです。

詳しい事はこちらのインタビュー記事にて↓

高井蘭童通訳インタビュー

 

 

 

川窪匡哉

川窪匡哉

またまたアントラーズでの通訳です。

鹿島はジーコスピリッツを受けつぐ典型的なブラジル路線のチームなので、優秀な通訳者が多く必要なのでしょうね。

川窪匡哉さんは元サッカー少年で、ブラジルサッカー留学を経てJリーグの通訳になったパターンです。

プロフィール
生年月日1981年1月4日
出身東京
通訳歴
2002 - 2006大宮アルディージャ
2006鹿島アントラーズ

驚くべくことに、川窪さんは小学校卒業後にブラジルへ渡っています。

三浦知良が中学卒業後にブラジルへ渡っているので、それよりも3年も早く、プロサッカー選手を目指し、単身ブラジル留学へ行ったのです。

始めはサンパウロ州カンピーナス市のポンチ・プレッタというチームに所属しました。

スタジアムに併設された選手寮で10人1部屋の共同生活などを経験。

その後、カピバリアー 、マツバラ 、アプカラナなどのチームを渡り歩き、最後の1年間は強豪グレミオの下部組織でもプレー

ちなみにマツバラとはパラナ州にあるスエオ・マツバラさんという日系人が創設したチームで、カズもかつてここでプレーしたことがありあます。

ブラジル滞在6年間のうちに、実に5つのクラブでプレーしましたが、プロ契約には至らず日本へ帰国

日本でもいくつかプロテストを受けますが、プロのサッカー選手になる事はできませんでした。

プロサッカー選手の夢をあきらめていたある日のこと、大宮アルディージャがポルトガル語をできる人材を探していることを知人から聞きつけます

川窪さんはすぐさまにこれに応募し、サブマネージャー兼通訳補佐として同クラブに就職することになったのです。

これがJリーグ界で働くきっかけとなりました。

大宮では4年間通訳として在籍しておりましたが、その後先ほど紹介した高井蘭童氏の口利きにより、鹿島アントラーズへ移籍。

やはりブラジル色の強い鹿島というチームは、ポルトガル語通訳者としては魅力的なチームなのですね。

現在鹿島でのキャリアは10年以上になります。

 

 

羽生直行

羽生直行

我ら浦和レッズでも通訳を務める羽生直行さんです。

羽生通訳は日本語、ポルトガル語の他に、英語、スペイン語、フランス語も話すことができ、5か国語を操る通訳の神様のような方です。

しかも英語、フランス語は通訳の仕事をはじめてから独学で習得した努力の方です

今までにオズワルド・オリヴェイラ、アギーレ、ハリルホジッチなどの大物の通訳を務め、経験も豊富です。

プロフィール
生年月日1975年10月7日
出身アルゼンチン ラプラタ
通訳歴
1996 – 2000清水エスパルス
2003 – 2005東京ヴェルディ1969
2006 – 2007べガルダ仙台
2008 –ジュビロ磐田
2014 – 2018日本代表(アギーレ監督、ハリルホジッチ監督)
2019浦和レッズ

羽生さんはアルゼンチンで生まれ育っておりますが、ご両親が日本人の日系2世です。

なので家族とは日本語で会話。当然スペイン語もネイティブレベル。

アルゼンチンの高校卒業後、工業デザインを学ぶために大学に進学するというサッカーとは無縁の生活を送っていました。

19歳の時に初めて日本へ来日。静岡県に住みはじめます。

その際アルゼンチン時代の学校の恩師の紹介で、清水エスパルスのアルディレス監督のスペイン語通訳として仕事をすることになりました。

この時点で話すことができたのは日本語とスペイン語のみです。

しかし、翌年の’97年からは、スペイン語に加えポルトガル語の通訳もサポートも任せられるようになりました。

97年のエスパルスと言えば、チームにはサントス、オリバ、三都主アレサンドロらがいましたね。

さらに翌年の98年には英国人のスティーブ・ペリマンが監督となったことにより、英語での通訳も求められるようになりました。

羽生氏はエスパルス在籍時にポルトガル語と英語を独学で習得したのです。

その後は2003年に東京ヴェルディで再びアルディレス監督と

2006年にはベガルタ仙台で名将ジョエル・サンタナ監督と

2008年はジュビロ磐田で元日本代表監督のハンス・オフトの下で通訳を務めました。

アルゼンチン人、ブラジル人、イングランド人、オランダ人の通訳を務めてきましたが、彼のキャリアはまだ続きます。

ジュビロ磐田の後はしばらくサッカー界とは遠ざかり、ウルグアイ大使館などで仕事をしていました。

しかしメキシコ人のアギーレが日本代表監督に就任すると、スペイン語堪能かつ経験豊富な羽生氏に白羽の矢が立ちます。

その後八百長問題によりアギーレ監督が退任することとなりますが、次に代表監督になったのはフランス語を使うハリルホジッチでした。

なんと羽生氏は、この時になって初めて羽生氏はフランス語を習得することを決意

ソッコウ本屋で『ゼロからのフランス語』という本を購入し、一からで独学で学んだそうです。

この時40歳でした。

ポルトガル語とスペイン語は似ているのでどちらかを知っていればすぐに覚えられます。

あとイタリア語も

ところがドイツ語、オランダ語、フランス語あたりは全く別物なんだよね。

なのでこれらを話せるのは本当にすごいと思います。

羽生さんは本当に努力のお方です。

 

 

 

中山和也

サッカー留学生から通訳になられた一人の方をご紹介します。

横浜FCや川崎フロンターレなどで通訳をやられた中山和也さんです。

プロフィール
生年月日1978年12月11日
出身岩手県一関市
通訳歴
2006 – 2008横浜FC
2009川崎フロンターレ

サッカーに携わる仕事がしたい!

学生時代よりそう強く思っていた中山さんは19歳のときにブラジルへ渡り、サンパウロのサン・ジョゼ・ドス・カンポスというクラブチームでプレーをしました。

中山さんのポジションはGKでした。

ブラジル生活は約1年間という短い期間ではありましたが、非常に中身の濃い生活を送りました。

誘拐事件に巻き込まれるという貴重な(?)経験もしたと語っています。

ちなみに私がブラジルに居た頃に、元アルビレックスの岩崎洋平選手がパラナクルービでプレーをしておりましたが、彼も一度強盗にやられております。

ブラジル留学あるあるです笑

サンパウロの治安が悪いのは本当!実際に強盗に襲われた話
ブラジルで不覚にも一度だけ強盗に襲われたことあります。 留学時代にかつてはベロオリゾンチのファベーラでの生活も経験した私ですが 駐在時代にサンパウロ市内で日曜日の白昼堂々にやられました。

帰国後は三重県松坂市にある、CFE(セントロデフッチボールエドゥ)というチームで選手兼通訳として在籍します。

こちらのCFEはジーコのお兄さんのエドゥーが設立したチームです。

その後は静岡FCに所属し東海リーグで1年間プレーしましたが選手としての限界を感じはじめました。

この時22歳

そんな折、知り合いのツテで麻布大学附属渕野辺高校のGKコーチに就任することに。

なんとこの頃、渕野辺高校には後の日本代表である小林悠選手が在籍しており、高校選手権にも2年連続で出場しておりました。

後に川崎フロンターレで共に仕事をする二人ですが、実はここで初めの出会っていたのですね。

高校サッカー部のコーチをしていて2年が経ったある日、横浜FCが通訳を探している、という話を知人からききつけます。

実は中山さんはCFE時代以来あまりポルトガル語を使う機会はなくなっていたのですが、Jリーグで働くということは滅多にないチャンスだと思い、思い切って入団する決意をします

これが日本サッカー界で本格的に通訳の仕事をするきっかけとなりました。

ちなみに当時の横浜FCは三浦知良、城彰二、監督は高木琢也というそうそうたるメンバーが揃っており、J2優勝という快挙を成し遂げた年でした。

当時住んでいた場所が職場からあまりにも遠かったので、アウグスト選手の家で一時期お世話になったというエピソードもあり。

横浜FCでは通訳のみならず、マネージャー、ホペイロ等幅広い業務も経験することができたので、Jのクラブの流れをひと通り学ぶことができたと語っております。

2009年には横浜FCが外国人選手を起用しない方針を打ち出したと同時に川崎フロンターレへ移籍。

そして今に至ります。

チームにブラジル人がいなくなれば、突然通訳の仕事がなくなることもよくあることです。

クラブチームの通訳も選手と同じで、サラリーマンのようにいつまでも会社に残れる保証はないのです。

 

 

 

白沢敬典

白沢敬典さんも10年以上Jリーグで活躍している最もキャリアの長いベテラン通訳の一人です。

その風貌からサポーターからガンジーのニックネームで親しまれております。

このブログでも敬意を込めてガンジーさんと呼ばせて頂きます。

偶然にも本物のガンジーがこの世を去ったちょうど100年後に白沢さんは生まれているそうです(ガンジー=1869年没)

これ豆な

白沢敬典

 

プロフィール
生年月日1969年7月26日
出身鳥取県倉吉市
通訳歴
2001浦和レッズ
2002 – 2013セレッソ大阪
2016アビスパ福岡
2018ガンバ大阪
2019川崎フロンターレ

ガンジーさん自身、子供の頃は野球をしていましたが、兄の影響で中学生からサッカーを始めます

地元鳥取の高校を卒業した後、東京外国語大学に進学しポルトガル語を専攻します。

在学中に社団法人(たぶん日本ブラジル交流協会)のプログラムで1年間ブラジル留学を経験。

ブラジルのスポルチ・レシフェというクラブで事務仕事を行うという研修を行っていました。

なんと当時チームのユースにはあのジュニーニョ・ペルナンブカーノがいたそうです。

まさか彼がブラジル代表まで上り詰めるとは思っていなかった、と当時を振り返って語っております。

その後ブラジルから帰国し大学も卒業

アルバイトをしていた札幌サッカースクールというクラブに就職し、コーチとして3年半働きました。

しかしやはり通訳として食べて行きたいという思いがあり、語学に磨きをかけるべく再びブラジルへ渡ります。

今度は国際事業団の一員(たぶんJICAの青年海外協力隊)として1999年から2年間にわたり、日本語教師をしていました。

その後2001年3月に帰国。

さてどうすれば通訳になれるか?

考えてもわからなかったので、とりあえずブラジル人が所属するJリーグのチーム全てに履歴書を送ったそうです。

しかし返事が来ることはありませんでした。

通訳への道をあきらめ、今度はブラジルの大学へ入学しようと3度目の渡伯を決意します。

見事試験にも合格!さあブラジルへ出発と言う時に

突然浦和レッズが通訳を探しているとう情報をきき、すぐに飛んで行ったそうです

当時のレッズにはドニゼッチ、アドリアーノ、トゥットなどのブラジル人選手やスタッフが8人くらいました。

今ではベテラン通訳ガンジーさんですが、当時は初々しい新人通訳

ついつい選手と仲良くなりすぎて、彼らの言うことを何でもきき入れてしまう”何でも屋さん”になってしまったそうです。

その結果、ある日人間関係でトラブルとなりチームを去ることに。。。。。

シーズン終了を待たず自ら辞退してしまったそうです。

チームスタッフといえど、選手とは一定の距離を置くべきなのですね。

という訳で浦和に在籍していたのはほんの2.3ヶ月間のみでした。

その後通訳としての自信をすっかり喪失し、鳥取の実家に戻ったガンジーさんでしたが

またまた通訳の話が舞い込んでくることになります。

今度はセレッソ大阪でした。

このセレッソ大阪においてフォルランレヴィー・クルピ監督とタッグを組んでいたことは有名で、結果10年近く在籍することになります。

ちなみにフォルランはスペイン語話者ですがガンジーさんとはポルトガル語で会話。

あとフォルランからも”ガンジー”と呼ばれておりネットで話題となってました笑

その後惜しまれながらクラブを去り、以降ガンバ大阪、アビスパ福岡と渡り歩きましたが、2019年からは川崎フロンターレで通訳を務めております。

ちなみにガンジーというあだ名をつけたのは、奈良育英サッカー部の上間政彦監督だそうです。

ブラジル遠征で出会った際に、”お前は今日からガンジーだ”と一方的に命名されたのだとか

ガンジーさんは見た感じからすごくいい人そうな感じですよね?

実際Jで働いていた友人からきいた話ですが、白沢さんは本当に色々な外国人選手から信頼されていたそうですよ。

 

 

 

焼田功

最後はちょっとおまけで柏レイソルの焼田功通訳をご紹介します。

焼田功

 

プロフィール
生年月日1981年7月1日
出身奈良県天理市
通訳歴
2008 – 2009ジェフユナイデット市原
2010 – 2015アルビレックス新潟
2016柏レイソル

奈良県の田舎に誕生

そこは日系ブラジル人が多く住む地域でしたが、その頃から身近にブラジルがありました。

中学校2年の時に初めてブラジル留学を経験。

わずか1カ月の滞在でしたが、これをきっかけに彼のブラジル人生がはじまったのです。

地元の高校卒業後は関西にある外国語大学でポルトガル語を専攻。

彼はなんと大学在学中に3度もブラジルへ行っています。

1度目は学校を休学してプロサッカー選手を目指して。サンパウロのノロエスチなどでプレー(たしか)

2度目は学校の交換派遣プログラムでブラジリア大学へ

3度目は在外公館派遣員制度にてサンパウロの日本総領事館で2年間パシリの仕事をこなしていました。

この時、時の総理である小泉純一郎氏のアテンドも行っておりました。

【ブラジル駐在】在外公館派遣員制度ポルトガル語試験について
在外公館派遣員制度というものがあります。 これは外務省から世界各国にある日本の大使館、総領事館等に派遣され 公用の旅行者が来訪する際の空港における作業やホテルの予約、会計、庶務などの部署での文書作成や対外的な折衝への立ち合いなど...

大学卒業後は大手総合商社に勤めるも、1年足らずで退職。

自分のやりたいことはやっぱサッカー!

そう思った彼は、サッカーコネクションを駆使しジェフユナイデット市原・千葉に転職します。

その後着々と通訳としてのキャリアを重ねアルビレックス新潟へ移籍。

現在は通訳兼強化スタッフとして柏レイソルで活躍しております。

なぜ焼田通訳のプロフィールに詳しいかというと、個人的に学生時代からの友人だからです。

ちなみに私の知るなかで、日本人で焼田通訳ほど流暢にポルトガル語を話せる人はいません。

彼のすごいところは、語学能力ももちろんなのですが、そのバイタリティや向上心にあります。

在外公館派遣員制度の試験の際も相当勉強してました。

日本の大学の他、ブラジリア大学でも勉強しましたし、通訳の傍ら新潟大学にも通い論文もかいてますし、通信で大学院も修了してたと思います。

どんだけ勉強すきやねん?って感じですね。

なので私は彼の事を友人でありながらとてもリスペクトしております。

 

 

 

 

いかがでしたでしょうか?

今回Jリーグで活躍するベテラン通訳さんの経歴をまとめてみましたが、やはり皆さんに共通していることは、知人や友人からのツテによってはじめるパターンが多いということです。

また長く続けられている方々は、2言語以上対応可能だったり、マネージャー業やホペイロをこなしたりなど、通訳プラスアルファ―でチームに貢献しております。

ただ単に言葉を右から左へつなぐ仕事をしてるだけではダメなんですね。

という訳で下記、Jリーグの通訳として生きていく為のまとめです。

・語学能力を身に着ける(2ヵ国語以上が理想)

・サッカー関係者のコネクションを築く(常にアンテナを張っておく)

・通訳以外の業務にも意欲的にとりくむ(通訳になってからも勉強が必要)

 

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