【動画あり】ビスマルクの現在の姿

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元ヴェルディ川崎のビスマルクと言えば、Jリーグ開幕当初の人気選手の一人でした。

実力はさることながら、その端正な顔立ちから女性ファンも多く、一時期は伊達公子さんとも熱愛報道があったりもしてましたね。

我々世代のサッカー少年はみんなゴールをしたあとに、ひざまづいて眉間を手で押さえて神にお祈りするポーズを真似したものです。

ビスマルク ヴェルディ川崎

まずはビスマルクさんについてご紹介します。

本名ビスマルク・バヘット・ファリア(Bismarck Barreto Faria)
生年月日1969年9月17日
出身地リオデジャネイロ州サンゴンサロ

 

88年にリオの名門 ヴァスコダガマのトップチームに昇格しプロデビューしました。

88年には州選手権で、89年にはブラジル選手権で優勝を経験しております。

そして90年には21歳という若さでブラジル代表として選出されW杯に出場しました。

その後、当時のヴェルディ川崎の熱心な説得により活躍の場を日本へ

ヴェルディではカズ、ラモス、武田と共に黄金期を支え、リーグとカップ戦の2連覇に貢献

またその後移籍した鹿島においても、小笠原、本山、中田浩二らとともに3冠達成という偉業も成し遂げました。

合計10年間にも及ぶ日本でのキャリアの中でJ1通算289試合に出場し69ゴールを記録しています。

2003年のヴィッセル神戸でのプレーを最後に34歳の時にサッカー選手を引退しました。

 

 

そのビスマルクさんが、先日ブラジルで公の場に姿を現したのでご紹介したいと思います。

こちらがビスマルクの現在の姿です↓

ビスマルク 現在

現役を引退してからかなり増量してしまったようです。。。。

写真は2019年時のもので当時年齢は50歳ですかね。

この日はサンパウロで元人Jリーガーのトークショーのイベントが開催されており、他にもレヴィークルピ、カレカ、サンパイオ、ワシントン、三浦泰年さんらが参加しましたが

どうやらビルマルクのビフォーアフターの差が一番大きかったようです。

ビスマルクは現役を引退してからはリオデジャネイロで事務所を開き、選手の代理人業をやっていました。

実は私2005年頃に都内のブラジル料理屋でアルバイトをしていたのですが、そこへビルマルクさんが時々遊びに来てました。

2005年というと引退して2年たったくらいの頃でしたが、その時からすでに現役時代の面影はなくなっていましたね~

最初人に言われるまで誰なのか気づきませんでしたから笑

ビスマルクとカズ

こちらは日刊スポーツさんの記事で10年ぶりに再会したカズとのツーショット。カズの方がビスマルクより2つ年上です。

 

ついでにこの日のトークショーでのビスマルクのコメントもご紹介したいと思います。

日本へ来たいきさつや、カズのお父さんである納谷さんから逃げていたエピソードなどが興味深かったです。

ヴァスコにはルイス・フラヴィオ(Luís Flávio)というフィジカルコーチがいて、彼は日本へいったのです。そして彼はヴァスコに来るたびにいつも”いつか君を日本へ連れいていくよ”と私に言っていました。当時私は20~22歳くらいで日本へ行くことなど想像もしていませんでした。むしろ私はヨーロッパへ行きたかったのです。そして23歳の時にスペインのセルタ・デ・ビーゴから、ライーを売却したサンパウロから、そして日本からオファーがきました。日本からのオファーは、偶然にも三浦泰年さんの父親である納谷さんからでした。彼はヴェルディ川崎のフロントの小見さんという方と通訳の人と一緒でした。そこでルイス・フラヴィオが電話をかけて言ったのです。”君を日本へ連れいていくと言ったのを覚えているかい?日本のチームは君のようなタイプの選手を必要としていて、僕が君を推しておいた。チームのスタッフが君と交渉する為にブラジルへ来ているよ”。しかし私の第一希望はセルタ・デ・ビーゴで、その次がサンパウロ。日本には絶対に行きたくはありませんでした。次のワールドカップまであと1年の時でもありましたし。私は90年のワールドカップには出場しており、次の94年大会に向けても、パレイラ監督により代表に招集されておりました。なのでもしここで日本へ行ったら、もう一度ワールドカップへ出場できる可能性がなくなってしまうと考えたのです。それから私は納谷さんやヴェルディ川崎の人たちから逃げるようになりました笑

納谷さんらがヴァスコに来ている事を知ると、私はホペイロにを呼んで”車を裏へ回しておいてくれ、正面から出る事はできないから!”と言っていました。納谷さんらは15日間も交渉の為に滞在しましたが、やはり私はセルタ・デ・ビーゴへ行きたいと思っていました。しかしセルタとの交渉はうまくいきませんでした。なぜならクラブの会長は当初は、契約は非課税だと言っていたのに、いざサインする時になると50%の税金がかかると言ってきたのです。これは自分にとって正しくない交渉であると思ってしまいました。そこで次にオファーをくれたサンパウロですが、ライーをパリSGへ移籍させるも、クラブの会長が欧州から戻ってこず私の保有権を買い取ってくれません。サンパウロも私との契約を遅らせて、私はヴァスコを出ざるを得ず、もはや納谷さんからは逃げられなくなったのです。覚えているのは彼らが日本でいくら欲しいか?聞いてきた時に、私は適当に私は高い金額を言いました。”こんな金額払わないだろうな”と思っていたところ、納谷さんは”いや、我々は払うよ”と言ったのです。思わずやばっ!と言ってしまいました。ワールドカップ出場の全ての可能性を捨てて23歳の時に日本へ行ったのです。もうセレソンからは遠ざかってしまうだろうなと思っていました。しかし日本へ行く前に衝撃的な出来事があって、パレイラ監督によって代表に招集されたのです。そこにはマウロ・シルヴァ、ドゥンガ、ライー、ネトといった94年の中心メンバーがいました。更にベンチを見るとエバイール、エジムンド、リバウド、エジウソン、そこに私がいたのです。自分の前にはなんとすごい人達がいるな、もうこの国を出ようと思い日本へ行きました笑

今でも、もしヨーロッパへ行っていたら幸せになっていたのか?日本と同じような成功を手に入れられたのか?と考えます。その後もヨーロッパやブラジルのクラブからオファーの話がありましたが、もう私は日本を出たくはなかったのです。

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