選手権常連校である、いわゆるサッカー強豪校の練習がどれほどきついものだったのか?
について興味があったので、YouTube等を参考に各学校のOBの証言を元にまとめてみました。
青森山田高校サッカー部
写真:Noriko NAGANO
青森山田高校の監督と言えば黒田剛監督が有名ですが
25年以上も連続して全国大会に出場する強豪校では、黒田監督の指導下でどのような練習が行われていたのか、OBの証言をまとめてみました。
郷家友太選手の証言(2018年卒)
写真『高校サッカー年鑑』
2018年に卒業した郷家選手の証言です。
郷家選手は青森山田中学校から青森山田高校に進学し、高校では2年生からレギュラーとしてプレーをしました。
選手権優勝とプレミアリーグ優勝の2冠達成を成し遂げています。
雪中のピッチを全力ダッシュ10本
青森県は日本国にでも有数の豪雪地帯ですが、冬の時期には腰の高さまで雪が積もる事も珍しくなく、なんと青森山田サッカー部は雪中で練習を行っていたそうです。
しかも新雪の上を走るという、考えただけでも過酷な内容です。
郷家選手が証言した地獄の練習メニューとは、雪が積もっているピッチを一周を45秒以内で走り抜けるというものでした。
しかもそれを1本ではなく、10本行っていたそうです。
1グループ11人で行い、一人でも制限時間に入らなかった場合はノーカウントというルール。
Google Mapにて青森山田高校のグランド1週の距離を測ったところ、ピッチ1週は340mでした。
それを45秒以内で走るとなると、50m走で6.6秒で走りぬけるくらいの速さになります。
間違いなく全力で走らなければ不可能です。
当然ストレートで全員が10本走り切れる事はなく、朝9時にスタートして昼の13時まで4時間走りっぱなしであったそうです。
しかも新雪が固まり始めたら、今度は隣にある野球グランドへ移動してダッシュをしていたという。。。
真夏の炎天下にスキー場でひたすらダッシュ
また郷家選手は真夏の過酷なエピソードとして
インターハイ前の真夏の炎天下の中を、モヤヒルズというスキー場までの道のり10kmを走って行き
山へ着いてもひたすらダッシュをした事を地獄だったと語っています。
調べたところ、モヤヒルズと青森市内の標高差は500mほどでした。
藤本憲明選手の証言(2007年卒)
写真:ゲキサカ
藤本選手はガンバ大阪ジュニアユースから、青森山田高校に進学しました。
3年生で右サイドバックのレギュラーとなり、選手権の第86回大会に出場しています。
練習場がある山までマラソン
青森山田は1軍は芝のグランドで練習する事ができますが
2軍以下は山の上まで登って練習をしなければならなかったそうです。
その山までを30~40分かけて走って行ったとか。
雪中サッカーで負けたら超過酷罰ゲーム
冬の時期は雪中でフルピッチでボールを3つ使い25対25のサッカーをゲームを行っていたそうです。
しかもこれには負けた方が過酷な罰ゲームが設定されていました。
どのような内容かというと、おんぶでグランド1週、お姫様抱っこでグランド1週、というものだったそうですが、中でも一番やばかったのは
サッカー部の隣にある野球場までダッシュし、気力、迫力、全力を一つずつタッチして帰ってくるというものでした。
気力、迫力、全力とは青森山田高校の校訓だそうで、野球場の一番遠い所に掲げられていたそうです。
この罰ゲームが本当につらかったので、みんなゲームでは絶対に負けまいと必死になって取り組んでいたといいます。
菊池流帆選手の証言(2015年卒)
写真:AOMORI GOAL
菊池選手は中学3年生の時に見た選手権をきっかけに青森山田への進学を決意しますが、特待生のセレクションを受けるも不合格。一般入試で青森山田高校に入学しました。
地道な努力を積み重ね自らのウィークポイントを強化していき、一番下のDチームからトップチームへとのし上がっていきました。
3年時に出場した選手権第93回大会では初戦PK戦敗退するも、大会優秀選手に選ばれています。
死ぬかと思ったまさかの追加罰走
菊池選手も郷家選手が語っていたモヤヒルズでエピソードを語っていました。
モヤヒルズでの地獄のダッシュトレーニングを終え、精魂尽き果てクタクタとなり、50分ほどかけてゆっくりと歩いて学校へ戻ると
先に車で戻っていた監督から一言
「お前らなに歩いて帰ってんだ?」
この時、菊池選手の同級生であった松木駿之介選手が
「すいません、もう一回走ってきます」
と言った事により、なんと一同は練習を終えたと思いきや再びモヤヒルズまで走って戻ったそうです。
菊池選手曰く、この時の体験は死ぬかと思ったそうです。
国見高校サッカー部
写真:共同通信社
国見最強時代を築き上げた小嶺忠敏監督
その指導は質量ともにきつい事で有名ですが、当時の国見高校サッカー部の練習がどれほど過酷なものだったのか、OBの証言をまとめてみました。
大久保嘉人選手の証言(2001年卒)
写真:権藤和也/アフロスポーツ
大久保選手は1998年国見高校に進学し、当時小嶺監督からは国見史上最弱の代と言われ、悔しさをバネに死ぬ気で練習に取り組んだといいます。
2年時以降レギュラーに定着し、3年時にはインターハイ、国体、選手権で優勝し、高校三冠を達成しました]。
また個人でもインターハイにおいて10得点、選手権では8得点を挙げ、それぞれ大会得点王を獲得しました。
ダッシュメニューでタイムに遅れたら狸山への罰走
国見高校では走りのメニューを”ししゃも”、”まぐろ”などの魚の名前で例えていたそうです。
例えば”ししゃも”だったらグランド1周を45秒、2週1分とちょっと、、、、
それを、1週→2週→3週→4週→5週 5週→4週→3週→2週→1週
と繰り返すのだそう。
そして、もしもラスト1本でも入らなかった場合は、狸山までダッシュで登りに行くという罰走が待っていました。
そして罰として走る狸山までの道のりも40分以内とノルマが課せられており、遅れたら当然やり直しとなったそうです。
ちなみに10kmを40分以内で走るには、1kmを4分ペースで走らなければならず、これは市民ランナー上級者レベルのタイムです。
那須さんがYouTubeで狸山ランニングがどれだけハードなのか体感していますのでご参考にどうぞ↓
毎朝朝練で1年間でオフはなし
大久保選手の時代は朝5時におきて6時には朝練を開始していたそうです。
1年を通して休みはなかったと語っていました。
過酷すぎて練習後に救急車で運ばれた
ある時の練習で、百花台公園まで走って行き、山の上で3、4試合をこなし
さらに公園で階段ダッシュをした後にそのまま走って帰らされた事があり
途中でコワクラという坂道で何人かが力尽きたそう
ところがそれでも練習を中断する事はなく、コーチがご飯とみそ汁を差し入れ、結局自力で寮まで帰らされたそうです。
さすがにその日の夜に、全身がつって救急車で6人ほど運ばれたそうです。
ちなみにこの日の走行距離を計算すると、軽く40km以上走っていると思います。
そういえば大久保選手は以前にインタビューで、国見の練習と比べると、セレッソ大阪の練習は全然楽だと語っていました。
平山相太選手の証言(2004年卒)
写真:時事通信社
2001年に国見高校へ進学。1年時から主力に食い込み、同年の高円宮杯を制覇に大きく貢献しました。
2年時には長崎県代表として天皇杯に出場し、高校チームながら3回戦まで進出。Jリーグ王者の磐田と対戦しました。
3年時の選手権では大会前から注目を集め、大会史上初となる2年連続得点王に輝くとともに、見事優勝も果たしています。
自分のせいで先輩を巻き添えに
平山選手の時代も狸山ロードワークは健在で、山道ランニングを経て百花台公園にて練習が行われていました。
百花台公園とはサッカー場やテニスコートを備える県立の大型公園で、クロスカントリーもできるところです。
百花台公園にて、500m、800m 、1000mの走りのメニューが行われておりましたが
やはりグループの中で1人でもタイムに入らなかった場合やり直しをさせられていたそう。
意外にも平山選手は入学したての1年生の時には、タイムに入る事ができずに5回くらいやり直しをさせられたそうです。
最終的に2年3年の先輩に押されながらやっとの想いでゴールした!と語っていました。
この出来事について、当時3年生だった先輩の徳永悠平選手は、平山が入らなかった為にやり直しをさせられている事に、内心ブチギレしていた事を後々に語っています。
都築龍太選手の証言(1997年卒)
写真:いにしえの高校サッカー備忘録
奈良県出身の都築選手は、小嶺監督の直接スカウトにより国見高校へ進学しました。
3年時は選手権ベスト8という成績を残しております。
10kmを40分切る難しさ
都築選手もやはり狸山のロードワークについての思い出を語っていました。
国見高校から狸山までの距離は往復で10kmあり、標高差は220mあります。
標高220mとは、フロア55を備える新宿センタービルの高さに相当します。
監督から40分以内にゴールしたやつから練習を終えていいと指示が出ましたが
都築選手はこれを、3回目か4回目の挑戦でようやく40分を切る事に成功したと語っていました。
3回か4回チャレンジするだけで、すでに40kmくらいを走っている事になりますね。
水が飲めない
都築選手の時代は、高校部活動の世界は根性論というものが根強く浸透していた時代で
真夏に1日4試合などをこなしているにも関わらず、絶対に水を飲ませてもらえなかったそうです。
ちなみに城彰二選手も鹿実時代に水分補給をさせてもらえなかった事を同じように語っていましたが、あまりの水欲しさに部員は雨が降っている時は上を向いて走っていたそうです。
昼夜問わずに罰走
都築選手は寮生活を送っていましたが、ある日同僚が深夜に洗濯を行っていました。
当然のことながら就寝の時間に洗濯をする事は規律違反であり、運悪く洗濯している場をコーチに見つかってしまいました。
夜中の2時であったにも関わらず、寮の部員が全員叩き起こされて、連帯責任で全員そこから狸山までの罰走を命じられたそうです。
鹿児島実業高校サッカー部
40年以上名門高校のサッカー部を率いた松澤隆司監督
鹿児島実業サッカー部を全国屈指の強豪校に育て上げた功績を称えられ、鹿児島県から県民栄誉賞も授与されています。
松澤監督の指導方法はどのようなものだったのかに迫ります。
那須大亮選手の証言(2000年卒)
写真:J LEAGUE
現在はYouTuberとして活躍している、元Jリーガーの那須大亮選手ですが、鹿児島実業時代には松井大輔と共に選手権に出場し、3年時に準優勝を果たしています。
恐怖の罰走ありメニュー
鹿児島実業においても、他の強豪校と同様にきつい走りのメニューが行われていました。
どのような内容かというと
100m → 200m → 300m → 400m → 500m 500m → 400m → 300m → 200m → 100m
と10本を走り、それぞれに制限時間内が設定されていました。
当然制限時間内に入らなければさらに過酷な罰走が待ち受けていたと言います。
鹿実サッカー部のエグイ話はこちらの記事にもまとめています↓
市立船橋高校サッカー部
アンダー世代の日本代表監督の経験もある布啓一郎監督
OBからは、布先生が笑ったところを見たことがない、選手権で優勝した時も頭の中では次の日の練習メニューを考えていた、などと囁かれていました。
サッカーに対して非常にストイックな、布監督流の市船サッカー部の練習をまとめてみました。
増嶋竜也選手の証言(2005年卒)
写真:サッカーマガジン
増島選手は中3の秋に市船のセレクションを受けるも不合格。その為一般入試で2001年に同校へ入学しました。
身体能力の高さを評価され、1年時からインターハイに出場。その大会では唯一1年生で優秀選手に選ばれています。
2年時には選手権、3年時には高円宮杯で優勝し、高校サッカー3大タイトルを獲得しました。
3年時に出場した天皇杯では、J1王者の横浜Fマリノス相手にPK戦までもつれ込む大接戦を演じ、今でもサッカーファンの語り草となっております。
エンドレス ランパス
ランパス16-32というメニューは主に夏の一番過酷な時期に行われていたそうです。
内容は2人組でゴールラインから、声を出しながらパスを繋ぎ、最後はシュートでフィニッシュをするというもの
16という数字はゴールに達するまでに交換するパスの数の事で、往復では32となります。
この時にシュートが入らなかったり、声が小さかったりすると、監督から容赦なくボールを蹴りとばされ、最初の位置からやり直しをさせられていたそうです。
まとめ
今回各強豪校の練習について調べてみましたが、個人的には青森山田の練習が一番きついように思いました。
理由として
どこの学校にも制限時間内にダッシュするメニューがありますが、青森山田の場合はそれを雪が積もる中行っていたという点
また国見高校~狸山コースよりも、青森山田高校~モヤヒルズコースの方が標高差の観点からみると過酷なのではないかという気がします。
国見OBの証言によると、小嶺監督は「鹿実より練習をしないと勝てないぞ!」と言っていたそうで、明らかに松澤監督を意識していたものと思われます。
一方で青森山田の黒田監督は、過去にインタビューにおいて「小嶺監督が自らバスのハンドルを握り、全国各地を行脚していたのを見習っていた」と語っていたことから
強豪校同士の監督が切磋琢磨し合って、厳しいトレーニングが追及されていたったのかもしれませんね。
という訳で今回は、サッカー強豪校の練習がどれほどきついものだったのか?について調べてみました。
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